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「新指導者」 10月号 精神科学研究所出版部 1941年
人工放射能の研究室より
飯盛 武夫
 今から四年前の事だつた。理研の内に我国最初のサイクロトロンなる原子破壊装置が出來た頃だつた。私は硫黄から作られた人工放射性燐を燐酸鹽として取り出すといふ實驗の為夜遅くまで飯も食べずに頑張らねばならないことがあつた。これは人工放射性元素を化學的操作で取り出す我国最初の實驗だつたらうと思ふが、硫黄から燐へ、アルミニュームからマグネシウムへ、亜鉛から銅へ等、その數年前には豫想も出來なかつた原子核の變換と、これに伴ふ人工放射體の研究には化學操作で何から何が出來たかを決定せねばならないのである。例へば、硫黄に中性子を當てると暫時にして、放射能を持つて來る。これだけでは放射性硫黄が出來たか否かは分らない。何か他の原子に變換してそれが放射能を持つてゐるのかも知れないからである。併し他の原子に變わつたとしても極めて微量であるからこの硫黄を分析しても、絶對變換した元素を抽出することは出來ない。實際は少量の燐を加へて、全體を溶かし燐を分離すると放射能は綺麗に伴つて來て、硫黄は只の硫黄に戻り、成程硫黄から放射性の燐が出來たといふ事が決定出來るのである。

 このやうに特別な方法によつて始めて、何から何が出來たといひ得るのであるから、我々が現在持つてゐるどの原子破壊装置でも、試料の一部の原子を確かに變換させたには違ひないが、物質變換を行つてゐるとは云ひ難いのである。例へば外部からの見學者に人工放射能なるものを示す為に、銀の板をサイクロトロンの近くに暫く置き中性子を當て、放射性銀を造り、出て來る放射線を計數管で捕らへ、電子一粒が出る毎に擴聲器がポツンと鳴るやうにすると機関銃よりももつと烈しい連打音となつて現れ、成程といふことになる。この場合は、放射性銀は電子を放射してカドミウムになる。我々は屡々銀貨を使つた。併しこれは貨幣になつてゐる銀を勝手に一部カドミウムに變へるのだから法律に触れやしないかといふ話が實驗室の晝休みに持出されたことがある、「併し、分析しても、重さを秤つても、何を測つても分らないから差支へないだらう」。「いや、兎も角、變つたことは確かだからいかん」といふ譯で甲論乙駁、賑やかに一時を送つたことがある。要するに原子核の變換を行つたといつても、普通の手段では何が出來たか分らないのであつて、前に述べたやうな特殊な方法で化學的に決定するのである。故に化學は人工放射能の研究に缺くべからざるものである。併しながら、原子核の變換といふ現象自體が物理學が新たに切り開いた領域であるから、化學は單に協力してゐるだけであつて、これだけでは化學が受ける恩恵といふものはないのである。

 然るに、以上述べたやうな方法による研究によつて、幾百の人工放射性元素が造り出され、殆ど總ての元素が放射能を持ち得ることになつたので、從來全く手の付ける所もなかつた新しい研究領域が自然科學の各部門に開けて來た。それは簡單に言へば、放射能を目標として原子の動行を知るといふことである。例を示せば、植物の根に燐酸肥料を與へたとすると、その燐酸分が何分後に葉へ到達するかといふことを知らうとするには、放射性燐で作つた燐酸肥料を肥料の中に均一に混ぜて置けば、燐酸が葉に來れば葉が放射能を帯び、花に來れば花が放射能を持つて來るので容易に分るのである。動物の飼料の中に放射性の燐酸分を加へて置くと、その燐酸の幾割が何時骨になり、尿の中に入り、又筋肉の中にあるかといふようなことがよく分るのである、この種の現象は從來如何にしても明瞭に知り得なかつた點であつて、此の方法によつてのみ知り得るやうになつた。その結果生物體内に於ける養分の運ばれる速度、摂取されて行く模様が非常によく分つて來た、このやうに原子の動きを知るといふことの重要なのは生物現象について最初認められたが、次第に各方面でも認められる様になつた。金属について見ると、金属を熱する時、原子が相當に運動してあちらこちらへ動いてしまふものだといふことが分つた。從來でも色々な現象からこのことが豫想されてゐたのであつたが、銅の中で銅の原子が動くといふ様な現象であるからはつきり動く速さを測ること等は出來なかつた。然るに銅片の一部に放射性銅を付けて置き、この銅原子の動いて行くのを放射能を測ることにより、直接明瞭に測定することが出來た。

 新陳代謝であるとか、金属内の原子移動現象であるとか、一見変化が起つてゐない様な事の内部に、實は起つてゐる現象を知り得るのは誠に興味のあることである。私自身、化學の研究に從事してゐる者として原子の動きを知るといふ事を如何にして化學に応用して行くかといふ事に最大の興味を持つて居り、一部研究も行つてゐる。現に行はれてゐる研究は孰れも相當に専門的なものばかりである。これは最も取付易い場所から研究されてゐる爲、一般的知識となり得るやうな現象にまでは及ぼされて來てゐないのである、そして化學の正統とも云ふべき化學反応は如何にして起つてゐるかといふ研究に對して、全く新しい知識を提供しつつある。即ち化學反応が何も起らない状態に於いても、原子の意外な動きを認めつゝある。これは分子内に於ける新陳代謝とでもいへるやうな現象が續々と加へられてゐる。例へば、鹽素酸カリウムを水に溶かして置き、鹽素ガスを通すと、ガスは飽和するまで溶けて後は何も起らないのが從來の知識である。所がこの場合、外から來たガスの鹽素がどしどし鹽素酸カリウムの鹽素と置換して行くことが分つた。これ等の結果、化學反応を取り扱ふ場合に、もつともつと目を廣くせねばならないことが切實に分つて來た。

 要するに、化學は森羅万象有りと有らゆる物質中の純物質を研究對象とする爲、個々の知識は實に數限り無く集精せられてゐる。併しながら對象に對して突き進んでゐる程度は未だ淺いのであつて、研究者の持つてゐる研究方法で進めるだけ進んで障壁に當たるとそこで中止し、別の事を研究して來たにすぎない。それだから、新しい方法が一つでも加はる時には、思ひ掛けない大物を獲得しないとも限らない。未だ明瞭な結果は出てゐないが、大に期待されてゐるものに、生物體内の化學反応の經路を確定することがある。例へば炭酸ガスとして植物に入つた炭素が、如何なる化合物を經て澱粉になるのか、又空中の窒素から如何なる化合物を經て蛋白質が作られるのか等を原子の動きを追跡して知りたいものである。そしてこの化合物の合成は現に植物が我々と同じ自然の環境で行つてゐるものであるから、その經路と、その条件を確かめれば、我々にも出來なければならない事なのである。さうすれば、我々は植物も動物も殺さずに榮養の補給を行ふことが出來ることになる。この二つの合成のみならず、生物體内の化學現象は簡單な物質に関するものでも未だよく分つてゐないから、原子の動き追跡することによつて今後續々と面白い結果が出て來ることを期待してゐる。化學は尚當分新しい知識、しかもなるべく新しい角度からの知識を積み上げて行かねばならない發展段階にあつて、従來の知識からだけでは、物質の最も簡單な純物質についても、明確な姿を掴み得ないのであるから、我々の周囲に存する実在の物質について、如何に変遷して行くものであるかを科學的に、數量的に、叙述するに至つてゐない。それ故に一つの新しいもの、人工放射能の持つ力をでも、私は最大限にまで發揮させるやうに努力もしたいし、注意もしたいと思つてゐる。