William F. Foshag 調べるほど話は思わぬ方向に・・・
 始まりは遺品の中にあった由来不明の鉱物標本でした。標本の正体を知るべく、「だめもと」でスミソニアン博物館に問合せのメールを送った結果、思いがけない情報がもたらされました。「スミソニアン博物館に埋もれていた意外な資料」の項目にあるように、戦前に飯盛とスミソニアン博物館との間で鉱物標本のやり取りをしていたこと裏付ける資料が出てきたのです。今までだれも知らなかったことです。

 私たちは、当時の先方の担当者で地質学部門の主席学芸員の William F. Foshag に興味を持ち、どんな人物かを調べてみました。Foshag は鉱物学・地質学の専門家でメキシコの火山、グアテマラ産ヒスイの研究で日本でも一部の鉱物学者や鉱物愛好者に知られているようです。長男の武夫が渡米した折、本邦産希元素鉱物の標本を寄贈し、返礼としてカナダ産希元素鉱物の標本を受け取った時の相手でもあります。

 Foshag は、終戦の翌年の 1946年 (昭和21年) に、GHQ (連合国軍総司令部)のマッカーサー最高司令官の要請によりスミソニアンのもう一人の鉱物学者 Edward P. Hendersonとともに来日していたことが判りました。その用件は、GHQ が接収した膨大な量の宝石 (主としてダイヤモンドと推定される) を分類、評価することです。

 この宝石については少し説明を要します。太平洋戦争中、日本国民は、戦争費用に充てるため、宝石・貴金属を強制的に供出させられました。集められた宝石・貴金属は実際にはほとんど使われることなく三井信託銀行本店の地下金庫室に密かに保管されていましたが、終戦時にこの情報をキャッチした GHQ によって接収され米軍の管理下にあった日本銀行の地下金庫室に移されました。

 Foshag らが鑑定したのは、この宝石で、量が非常に多かったので作業に四か月以上 (六か月とも) かかりました。これらの宝石はサンフランシスコ講和条約の発効に伴い、日本国政府に返還されました。しかし、混乱期であったため、かなりの量の宝石が返還されずに行方不明になったと伝えられ、戦後日本史の闇となっています。このことがM資金のインチキ話に繋がることになりました。

 Foshag が来日したら当然飯盛と会うはずですが、当時の飯盛の日記には Foshagのことが何も書いてありません。当時は飯盛は石川町に在住中で連絡が取れなかったのかも知れません。あるいは、ミッションの性質上敢えて連絡しなかったのかも知れません。

 Foshag についてさらに調べると、来日の折、真珠王・御木本幸吉氏およびその義弟の久米武夫氏と会っていたことが判りました。久米氏は日本の宝石学の先駆者の一人と言われています。その時の写真をこちらで見ることができます。

 Foshagがアメリカの宝石専門雑誌 Gems & Gemology に御木本幸吉の紹介記事を発表していたことが判りました。

 さらに、御木本幸吉氏の四女・乙竹あいさんが、飯盛の妻・ゆくと女学校(東京女子高等師範学校付属高等女学校)で同級であったという繋がりもあります。
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