海外の足跡をたどる
飯盛が英国に留学してケンブリッジ大学で一年、オックスフォード大学で一年、合計二年学んだことは良く知られています。 しかし、残されていた二枚のメモを精査すると、実際は少し違うことが分かりました。

メモは二枚とも戦後に書かれたと思われます(戦前の記録類は戦災でほとんど失われているので)。また、筆跡からみて本人が書いたものに違いありません。 メモ1には海外旅行全体の行程の日付が書いてあります。メモ2は、研究ノートに挟まっていたもので、「世界漫遊の歌」と題して旅の行程をユーモラスに七五調にまとめたものです。 これらは、雑記帳第一帖の三ページ目にある「わが輩は曾て地球を一周した。印度洋、紅海、地中海、大西洋、アメリカ大陸横断、太平洋を横断した」の記述に良く一致します。
メモ1
洋行メモ

メモ2裏側メモ2表側
メモ裏側メモ表側

メモ2をテキストにしたもの。赤字は加筆訂正箇所
世界漫遊の歌

【世界漫遊の歌の注】

一行目 片舟 へんしゅう、扁舟とも書く、小舟のこと

四行目 『荘子』逍遥遊の「鵬程万里」に因む。鵬という想像上の巨鳥は、羽ばたくとつむじ風が起こり九万里の高さに舞い上がる。鵬程は非常に遠い距離を表す。

二十四行目「扶桑の峯」は「芙蓉の峰」(富士山の雅称)の間違いと思われる。

二十七行目 正しくは「秀でて見ゆるこそ愉快なれ」

メモ1によると、1919年 (大正8年) 6月28日加茂丸で東京を出発し、ロンドンには10月15日に着いています。
メモ2によると、ロンドンに直行したのではなく、エジプトに上陸してピラミッドを見物し、さらにローマに寄って古代遺跡を見学しています。他にも寄った所があるかもしれませんが、これ以上はわかりません。
通常、日本からロンドンへは直行で約二ヶ月のところを四ヶ月近くもかかっているので、途中かなりの時間を費やしていたことになります。

その後は地中海を横断しジブラルタル海峡を抜けてロンドンに行ったようです。
メモ1によればケンブリッジ大学に滞在したのは11月から翌1920年6月までの8ヶ月間で、その後すぐにオックスフォード大学に行ったのではなく、10月までの5ヶ月間はヨーロッパ大陸に渡り、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、スイスを訪れています。
メモ2にはロンドン、パリ、ベルリン、アムステルダムの諸都市の他、セントピータースブルヒという聞きなれない都市名があります。
これを英語で綴ると Saint Petersburg になります。この名前の都市はアメリカのフロリダ州とペンシルベニア州にありますが、文脈から見ると大西洋を渡る前なのでヨーロッパでなくてはなりません。
これに当てはまるのはロシアのサンクトペテルブルグになります(英語表記は Saint Petersburg )。
しかし、メモ1にはロシアの国名はありません。次の行に「世界の都」とありますから、地方の小都市ではないと思われます。語尾の「g」をカタカナの「ヒ」に転写していることからドイツ語圏の可能性がありますが、セントピータースブルヒがどこを意味するのかは今のところ分かりません。

ケンブリッジ大学とオックスフォード大学の間の5ヶ月間は、大学が休暇中であったか、ソディ教授の受け入れ準備ができていなかったためと考えられます。
オックスフォード大学には1920年(大正9年)10月から1921年(大正10年)6月までの9ヶ月滞在し、その後大西洋を渡ってアメリカに行き、11月までの約6ヶ月間滞在し、ニューヨク、ワシントン、ボストンの諸都市を訪問し、シカゴ経由でサンフランシスコから東洋汽船の天洋丸で帰国しています。
(帰路については理研に残されていたメモによる)
日程表
海外の足跡にはいくつかの謎があります。飯盛はなぜ事実と異なることを公表したのでしょうか。以下は関連部分の引用
理研初期の思い出、理研OB会会報、第4号、p.3 (1976) ・・・私は大正8年7月に出発して印度洋・地中海経由で英国に向かい約1ヶ月半の旅程を了てロンドンに到着した。
分析化学その他の昔話、ぶんせき、No.6、p.399 (1975) ・・・最初の一年はケンブリッジ大学の冶金学研究室で・・・
化学分析その他の昔話、ぶんせき、No.6、p.399-400 (1975)・・・それから次の一か年はオックスフォード大学のSoddy教授について・・・

これは推定ですが、留学以外の部分は私的な旅行だったので、公的な留学と私的な旅行の話を一緒にするとややこしくなるので、私的な旅行の部分は省略したのではないかと考えられます。
当時は海外に出られる機会がほとんど無かったので留学のついでに各地を巡って見聞を広めることが一般的に行われていたようです。
飯盛のきちょうめんな性格から考えると、留学中の事や旅行中の事を日記に記していたはずですが、戦前の記録類は戦災で失われているので、詳細は分かりません。意外なことに、親族(子、孫)は英国留学のことは知っているものの、ヨーロッパ大陸やアメリカに行ったことをほとんど知りません。
したがって飯盛がヨーロッパ大陸やアメリカでどのように過ごしたのか、誰に会ったのかも今のところ分かりません。ただ、資料の解析はまだ済んでいないので今後何か分かる可能性は残っています。

追記:その後郵船歴史博物館で調べたところ往きの船は「加茂丸」でなく「賀茂丸」であることが分かりました。
スエズ運河通過に際しては順番待ちで何日も待機しなければならないので、その時間を利用する観光ツァーを提供する旅行会社がありました。飯盛もそれを利用してピラミッド見物をしたと思われます。
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