海外の足跡をたどる(続編)
「飯盛日記」(未刊)には、戦災で失って残念に思う物がたくさん列挙してありますがその中から海外に関するものを抜き出すと

1.外国留学中うちへの通信の手紙類と外国で受け取ったうちからの手紙類
2.自分の留学中の日記
3.在外中に各処で写した写真
4.在外中各国で集めた絵ハガキを挟んだアルバム六、七冊
5.外国の著名の学者連から永年の間に受取った手紙や文書
そのうちには旧師ソッデー、ヘーコック、及びアストン、ヘベシー、ジブラム、ホルムス、ミュラー、オットーハーン、プロトニコフ、を始め、論文交換で相当沢山の人達から貰ってゐた。
米国人ではワシントン国立博物館のフォーシヤグ、マサチュセッツ工業大学のエヴァンス(第一回応用原子核物理学会の招待状を送ってくれた)、カナダの鉱山省のスペンス(wikipedia中に記載、カナダ・ウィルバーフォース産黒色蛍石を提供してくれた)
という記述があります。本編で推定したとおり、やはり留学中に日記を付けていたことが判りました。これらの貴重な資料が失われたのは本当に残念なことです。しかしその後親戚などから戦災を免れた若干の資料が見つかり、それを元にして在外中のことが少し分かりました。
上の写真の場所の現在の様子(教会手前の樹も変わっていない)
ハガキに書いてある下宿の場所 Owlstone road の現在の眺め(多分当時と変わっていない)
現在のニューナムカレッジ(Sidgwick Hall, シジウィックホール)アーチをくぐって中庭の右側

英文メモ
資料を整理中、二種類の英文メモを見つけました。一つは、メモ用紙に都市名と滞在期間(月名)を書いたごく簡単なもの(英文メモ1)ただ、このメモと本編の方の日本語のメモとは合わない点があります。例えば、本編の方ではロンドンに10月に到着しているのに、こちらのメモではケンブリッジにSeptmberから滞在となっています。
日本語のメモと英文メモが喰い違うのは、頭の中の記憶以外に資料が無かったからではないかと思われます。

もう一つはレポート用紙三枚に鉛筆書きしたもの(英文メモ2)です。英文メモ2の方は、思い付くまま書きなぐった感じで、全体としてまとまった文章になっていません。解読も困難です。順番もこれで良いのかわかりません。
読みとれた部分には、「箱根に行ったか?」、「歌舞伎を見たか?」、「日本の食べ物はどうか?」などが書いてあることから外国からの理研関係の来客との想定問答の下書きのようです。

キーワードとして uranium, reactor (原子炉), サイクロトロン, Dr.Nishina, Mr.Nagashima (長島乙吉氏)などが読み取れます。

文中には数年前に仕事をリタイアした、とありますから、時期は昭和30年頃と思われます。この相手が誰であるかは興味がありますが、それは別にして、自身が外国に居た時のことが、少しだけ書いてあります。
英文メモ2の二枚目には、"I toured New York & stayed only a week."とあるので、アメリカ滞在中はニューヨークに一週間だけ滞在していたことが判ります。
英文メモ1にはBostonに1921年のAug.からNov.まで滞在、と書いてあります。英文メモ1にはアメリカの都市ではBostonだけが書いてあることから、アメリカ滞在中はBostonに本拠を置き、そこから各都市に出かけていた、と推定されます。

英文メモ2の三枚目には、"Quite long ago, I toured Paris & stayed about 3 months. I was boarding at certain small house. I was lodged with M. Marsion's house. I lived a little while in lodgings in just outside Port de N...?
と書いてあります。つまり、パリではM.Marsion's house(多分下宿)に約3か月滞在、そこを本拠にしてヨーロッパ各地に出かけていたようです。上のハガキにあるようにこの期間はフランス語を練習していたようです。メモには下宿の所在地らしい記述 (下線部) がありますが、パリの地図にはそれらしい所が見つかりません。

なお、今回のメモには書いてありませんが、別項の「すばらしい声楽家として」の中に、ロンドンで理研の高嶺俊夫氏と会い、エンリコ・カルーソー(世界的に有名なテノール歌手)のリサイタルに誘われたことが書いてあります(実際に聴きに行ったのかは不明)。これはケンブリッジに行く前のことです。
英文メモ2

理研に残っていたメモ
理研は戦災に遭っているので、飯盛の英国留学に関する資料が残っている可能性は少ないのですが、記念史料室にお願いして探して頂いた結果、かろうじて留学時の旅費の精算書が三部ほど見つかりました。
正式書類にしては雑なので、下書きのようなものと考えられます。この資料から読み取れる情報はあまり多くありませんが列挙してみます。

1. 英貨の単位として磅(ポンド)、志(シリング)、片(ペンス)の当て字が用いられていた。

2. オックスフォードからアメリカに渡るときは、汽車でサザンプトンまで行き、モレタニア号でニューヨークに渡った。
モレタニア号は当時大西洋航路の花形客船でタイタニック号のライバルだった。別項英文メモにより、到着したニューヨークに一週間滞在したらしい。ただ出発港としてリバプールの書き込みもあり、乗船前にどちらが良いか比較したのかも知れない。

3. 帰国の際はサンフランシスコから乗船したと思われるが、3枚目のメモにはシアトルからの料金も記載されているのは、やはり、どちらにするか比較したらしい。

4. 3枚目のメモには ボストン ⇒ バッファロ ー ⇒ シカゴ ⇒ シアトル ⇒ 横浜 の運賃が記してあるが、サンフランシスコから乗船したならシアトルに行く必要は無いはずだから、この経路の何処まで乗ったのかは不明。

提供元:国立研究開発法人 理化学研究所
提供元:国立研究開発法人 理化学研究所
提供元:国立研究開発法人 理化学研究所

所属カレッジについて
どういう訳か飯盛が留学した折り、ケンブリジ、オックスフォード両大学のどのカレッジに所属していたのかが、どの資料にも記されていません。ちなみにケンブリッジ大学には 31 、オックスフォード大学には 39 ものカレッジがあります。
ケンブリッジ大学で指導を受けたヘイコックの経歴は英語版Wikipediaに出ています(Charles Heycock)。これによるとヘイコックはキングスカレッジ・King's CollegeでAssistant Tutorをしていた、とあるので飯盛はケンブリッジ大学ではキングスカレッジで学んでいたことが判りました。
オックスフォード大学ではマートンカレッジ・Merton Collegeの中庭で撮った写真(前出)があることから、マートンカレッジで学んでいたことが判ります。さらに、恩師のフレデリック・ソディ教授がマートンカレッジに居たことがマートンカレッジのホームページで確認できます。
私達は、飯盛が留学していた時の記録が何か残っていないか、両方のカレッジに照会のメールを送りましたが、何も残っていませんでした。ただ、一部の資料にはヘイコック教授となっていますが、ヘイコックは教授ではなかったことが返信で確認できました。
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