ここに取り上げた文は、飯盛の第四高等学校時代からの親友、河合良成氏が亡くなられたとき、小松社報に寄せた追悼文です。 河合氏は昭和22年に株式会社小松製作所(呼称:コマツ、KOMATSU)の社長に就任、会長も務められて、小松製作所を今日の世界的大企業に発展させる基礎を築かれました。 また、第一次吉田内閣の厚生大臣、経団連常任理事など多方面に渡って活躍された方です。 この度、小松製作所のご好意で小松社報から転載させて頂くことになりました。
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故河合良成会長追悼録(9)
青年の意気に終始した河合君
理化学研究所名誉研究員 飯盛里安
 その生涯を通じて、いつも若々しく活気あふれる創意と探究に終始した故河合会長は、実業家として大成された晩年でも、あの溌剌とした青年時代と少しも変わっていなかった。
 私は中学時代からのお付合いだが、高岡中学校では私の方が一年上級であった。ところが私は五年生の時に一種のノイローゼで一ヶ年休学したので、金沢の四高えは同年に入学した。同君は一部え、私は二部えと専門は違ってはいたが運動部でも、同君は専らテニスと柔道を、私はボートと剣道をやっていた。
 このように運動の種類は聊か違っていたが、高い山岳に登る趣味では一致していた。しかし同君は当時の剣岳のように、あまり人の登らない山に登るのが好きであったのに反し、私の方は富士山や木曽の御岳山とか多くの人の行きつけた山にいつも登っていた。そのせいか学生時代に同君と一緒に登山したことは一度もなかった。
河合良成氏と飯盛里安  そのくせ三浦半島のような海岸を二人きりで一緒に歩いて、何か哲学めいた議論をしながら、油壺の東大臨海実験所の寮に一泊したことなどを思い出す。
 四高時代から同君は既に非凡な政治家としての素質を発揮していた。その一例は、その頃の運動部を説いて三高との試合を実現させたことなどでも窺われる。 いわゆる『南下軍』を殆ど同君一人の考えで計画し、しかもその行動を起こすに当たっては慎重にもその一ヶ月ほど以前に、窃かに(ひそかに)京都に行って三高運動部の状況を隈なく内偵していたのである。その時の応援歌『南下軍の歌』は、現在でも旧四高卒業生の集まりがあれば必ず歌われる名歌詞である。
 金沢時代には一年の寮生活のあと、一時同じ素人下宿で一緒に暮らしたこともあったが、高校生活の後半は、その頃同君の傾倒していた西田幾多郎先生の庇護の許にあった『三々塾』と称する由緒ある塾を、数人の同志と共に改組して、そこで禅坊主のような生活に甘んじていたようだ。それでいて校風刷新だ、南下軍だ、と不羈奔放の生活に明け暮れていたものだ。
 大学時代の最初の頃は、同君は勉強が過ぎたためか一時ノイローゼに悩まされていた。偶々(たまたま)私の住居が同君の森川町の下宿に近かったので常に往き来していたが、気分転換のために謡曲でもやってみようということになって、その頃東大赤門近くにおられた宝生流の小澤先生の許に週に一、二度揃って出向き、神妙に幾番かの謡を教わったことがある。しかし両人ともあまり進境がなく、そのうちに同君が大久保の方へ引越したので、結局半年足らずで一先ず卒業になってしまった。その後同君の謡に対する興味がどうなったか、遂に聞かずじまいに終わった。
 学生時代を終えて私が英国ケンブリッジ大学の冶金学研究室に居た頃、同君は東京株式取引所支配人として大正八年の暮れ近くに飄然とこの田舎町にやって来られた。 なんでも取引所から派遣されて欧米の株式市場調査に出て来たとのことだったが、そのような多忙な旅行の間でも態々(わざわざ)訪ねて来られた友情が嬉しかった。
 その日は私の下宿に一泊して翌日郊外のバイロンプールや、水車小屋や、一軒家の居酒屋などを覗いたりしながら、イギリス特有のこんもり茂ったエルム樹の並木道をぶらついた思い出は今も懐かしい。

 小松製作所と私との関係は、河合さんが当社の事業を受け継がれて間もない頃からのことである。私は大正6年に理化学研究所が創立されると同時に同所に勤めることになったが、主としてラジウムその他の希元素関係の研究に従事していた。
 それが大東亜戦争の頃になるといろいろな希元素製品が必要になり、昭和20年頃には理研構内のみならず足立区宮城町、北区神谷町と三カ所に精錬工場を設けてそれらの生産に逐はれていた。
 ところが同年4月の空襲でこの三工場とも全部破壊されたので、焼け残った設備の一部をまとめて福島県の石川町に疎開して辛うじて生産を続けていたが、自宅も焼失したので終戦後もそのままそこに4年間も居坐っていたのである。
 その期間の昭和23年の秋頃、同君からの便りに、いま保険会社の用件で仙台に来ておるが是非会いたいから帰途そちらへ立ち寄るとあった。ところがその日は生憎アイオン台風と称した非常な暴風雨の襲来した当日で、こんな時に来られるかどうかと危ぶまれたが、定刻の列車で正しく(まさしく)やって来られた。
 早速町はずれの山腹にあった貧弱な実験室へ氾濫した小川を渡って案内した。そこで椅子に腰をおろすや否や『早速だが君に頼みたいことがある。日本は原爆であえなく敗れたが、この原子力こそ将来最も有望なエネルギー源だと思う。先日も東京で仁科博士にも会ってこのことについて意見を述べておいたが、君は原料のウランについては専門家だから是非一考して欲しい。実現の可能性があるなら、自分でやるつもりだ 』とのことである。
 つい最近建設機械の生産会社を引受けたというのに、相変わらず保険会社の仕事もやっておるかと思えば、同時に原子力工業に乗出そうというのである。しかしこれは同君の八面六臂の本領からであり、私は敢えて驚かなかった。
 『いずれ近いうちに東京へ帰るから、その上でゆっくり相談しましょう』との私の返答に満足されて、汽車がストップしないうちにと、さっさと帰途につかれた。後に聞いたら久慈川の増水で列車は水戸までも行かれず、その日は袋田温泉泊まりになったとのことであった。
 私はその翌年に東京に帰って、ようやく復興しかけた理研で純学術的研究や、平和産業の基本的な研究などに着手することになったが、同時に河合さんのこの意志にも添うよう、かつ同君の意見に従って原子燃料を抽出すべきウラン鉱の探査から始めることになった。
 それには以前から理研で希元素鉱物の探査にいつも協力していたエキスパート両名を煩はして、再び内地および東南アジア地域の探査に当らせ、なお私自身も余暇を得ては以前に未調査だった国内各地を踏査することにした。
 国内では今度は主として河川の砂の調査に重点を置いたが、その結果新潟県の三面川および長野県の高瀬川の河床砂が若干の放射性鉱物微片を含有しておることが判明した。しかしその含有率は極めて低く、原料として採集するほどの価値の全くない程度であった。
 一方東南アジア方面へ派遣した方からは、タイ国のマライ半島地域にある砂錫採集地区で廃棄されるアマン試料その他を続々送って来た。その頃には私も理研を退職していたので、それの験査分析並に希元素金属の精錬研究を行うため、昭和30年に川崎工場の一隅に小松技術研究所が設けられ私自身もそこでこの方面の研究に従事することになったのである。
 余談に亘るが、当時政府でも原子力の将来性に着目してその開発に乗り出してきたが、その主唱者がなんと河合さんとも私とも旧知の科学技術庁長官正力松太郎氏であった。同氏も私にこの方面の技術に堪能有力な学者を推薦してくれとのことだったので、取りあえず物理の菊池正士、化学の木村健二郎両博士を紹介したのである。そして同博士達の真摯な努力によって間もなくわが国最初の原子炉第一号が立派に建設された。これがわが国における原子力事業の発祥であろう。
 このようにして原子力は政府の手によって進められることになったので、河合さんもこの方は断念して専ら他の希元素金属のうちで有望なものを開発して見ようということになった。そこで前記アマンの主成分であるニオブ、タンタル、チタンのうち私の以前に造ったことのあるタンタルを一先ず取り上げることになった。これは、その頃から既に著しい進境を示していた合成繊維の紡糸用の釦(ノッズル)や、電子工業などで重用されるコンデンサーなどの材料として貴重だからである。これは一応見本程度のものまでは出来たがそれの生産工程がかなり難しいので、これに代わって丁度その頃完成された石塚さんのチタン金属が採用されることになり、現在の小松電子金属が発足することになったのである。
 その後も希元素関係の問題が会社に持ち込まれる毎に、それの真価について河合さんはいつも私に諮問することにしておられた。最近の新聞によると、近く福井県若狭湾沿いに建設される百万キロワット級の原子力発電所と同じ程度のものが、今後十年間に全国に約二十個所もできるとのことである。つまり二千万キロワットの規模になるといわれておる。河合さんの炯眼は正に的中したのである。
(小松社報 1972年7月号から転載)
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