あの頃の思い出
 理研にいた頃を回想するといつも長島さんのことが思い出される。私が石を探して山へ出かけるようになったのは丁度48年前の大正11年(1922年)以来のことである。その年の秋のさなか”どうだん”のきれいに紅葉した苗木の丘で手当たり次第に拾って持ち帰った幾つかの雑石を持って、その鑑定をお願いするために番町のお宅へ伺ったのが長島さんと私との出会いであった。

 石といってもラジウムやトリウムのような放射性元素を含んだ鉱物が欲しかったのだが、わが国内にそのような鉱物が果してどれ位あるのか、まださっぱり判っていない時代であった。その頃国産の放射性鉱物として知られたものは苗木の苗木石、フェルグソン石、石川のモナズ石、サマルスキー石、ゼノタイムそれから台湾や渋黒の温泉沈積物としての北投石位のものだった。

 それで先ず苗木、石川、石榑、田ノ上それから黒平とその頃神保先生から直接拝受した同先生等の名著「日本鉱物誌(大正5年発行)」(1916年)や地質地図をたよりに数年間あちこちと探し廻った訳だが、産地に行けばものはいくらでもあるかの如く思ったのがそもそもの間違いで、鉱物探しには何よりも先ず鉱物を見付ける特殊な才能というか一種の勘が必要であることがつくずく解ったのである。

 こんなことでもたもたしておるうちに内地で簡単に行けるような場所には最早あまり望みがないことが判ったので、昭和9年(1934年)春に室員と共に朝鮮に渡って主として砂金鉱床や各地の河川砂床の調査をやって見て可なり有望であることが判明したのである。また同年秋初めて長島さんや木村健二郎さんなどとご一緒に九州の北部地方の探査に出かけ、九大の高先生のご案内で福岡県の長垂や小峠地区を廻り歩いた楽しい思い出がある。

理研時代 — それにしても所要のウランやラジウムを抽出するには相当多量の原鉱が必要なので昭和11年(1936年)から長島さんにも理研の所員としてその独得な偉才を発揮して戴くことになったのである。すると同年秋に忽ち福島県飯坂村水晶山で希元素鉱物を含むやや大きな鉱床を発見されたが、そのうちにはわが国にとって新産だったイットリア石、トロゴム石、テンゲル石、リン銅ウラン鉱それに後にいたって阿武隈石と命名された新鉱物まで含まれていたのである。

 この鉱床で最も多量に産出したのはフェルグソン石、イットリア石並にその風化によって生成するトロゴム石などであった。そこで早速その翌年(昭和12年)(1937年)の春からこれ等の鉱物や朝鮮各地の砂金鉱床で廃棄される黒砂を原料としてとりあえず理研構内でウラン、トリウム、ニオブ、タンタルおよび希土類の半工業的抽出を開始した。この時水晶山から前記のような諸鉱物を含蔵する鉄雲母約80トンを取り寄せ、手選や水簸選鉱によって原料鉱物を選別したが、その一部から100グラム以上の微粒閃ウラン鉱も出て来た。またこの雲母それ自体が微量成分としてセシウムを含有するのでこれから光電資材としてのクロム酸セシウムなども造った。

 また朝鮮産原料としては全鮮に亘って黒砂を買い集めたがそれでも思わしい量に達しないので仁川や京城郊外の西氷庫、更に慶北の豊基と三カ処に砂鉱の水簸選鉱場を置き、各地の河床や海浜で採集した重砂をここで再精選してから取寄せることにした。このように急速に設備を拡張したのは不幸にして昭和12年(1937年)に支那事変が勃発して希元素資材が頗る緊要となってきたためである。こうなると私自身も時々朝鮮へ出向く用件もできるので、そんな時はいつも序でに未踏査の地帯を調べることにして、時折長島さんにもご一緒を願ったものである。 写真 (1) は昭和14年(1939年)の暮れには北鮮の金剛面長箭海岸の試掘探鉱現場を視察に行ったと時のものであるが、行く先ざきで苦しかったこと楽しかったことなどかずかずの思い出が長島さんの面影と共に今もなお目に浮かぶ。

 そのうちに昭和16年 (1941年)の暮から大東亜戦争が始まりわが国の事態も益々急迫してきたので、その翌年から理研構内の設備を強化し主として原料の選鉱やニオブ、タンタル、セシウムなどの生産を行ない、その他に王子に足立工場、また荒川放水路に接した宮城町に荒川工場を建設してそれぞれトリウム並に希土類の抽出およびウラン抽出をいずれも生産規模で操業するようになった。またマレイ半島に特産する砂錫の残砂、いわゆるアマンがモナズ石砂鉱を高率に含有しておるので、これも原料として取寄せることにし、その頃技術院の主宰であった科動南方特殊資源調査団に室員を参加派遣し調査の結果、比較的良質のアマンを多量に取寄せることにしたのである。

 しかしその頃になると南方海域の交通が頗る危険となって待望のアマンも容易に到着せず少なからず焦慮したが、 昭和19年 (1944年) の春になって辛うじてその4,500トンが軍部の手によって神戸に入港した。その内1,500トンは理研工場で磁選し、残りの3,000トンはその頃結成された日本希元素統制組合の手によって静岡県気賀町に急設された選鉱場に送って選別することとなった。また同年技術院総裁多田礼吉博士が自ら団長として満蒙資源調査団を組織し、主として希元素資源の探査を決行されたがこの一行には長島さんも参加され海城県三台溝地帯でフェルグソン石やユークセン石などの新産を発見され一行本来の目的に遺憾なく偉功を挙げられた。

 最初のうちは単なる学問上の趣味から着手した希元素抽出の仕事が、このように次第に大規模になってきたのは当時理研には大サイクロンもあり、仁科博士を始め多数の原子物理学者がおられた関係で大河内所長は既に昭和16年 (1941年) に軍部から原爆の研究を依頼されていた。この時点はアメリカが同じく原爆の研究に着手した時機と大差がなかったのである。それだのにわが国の方がその原爆の手にかかってあえなく敗戦の憂き目を見たのは言うまでもなく国力の大差とウランの欠乏によるのであろう。そして仁科博士が実際にウラン235の濃縮研究に着手されたのは昭和18年 (1943年) の春頃であって、軍部からも多数の科学出身の将校がお手伝いに来ていた。それと同時に私の方でも原料ウランの生産を強行することになり、長島さんを煩わすことがいよいよ多くなったのである。当時朝鮮の黒砂調査も一通り終っていたので、その後は専ら独自に適当な重砂を探すより他に方法がなく、時には交通の便のない土地へも屡々調査に行かれたが、 最も長距離に亘るものでは、 その頃まだ鉄道の布設されてなかった朝鮮の東海岸の江原道の襄陽邑から慶北の浦項に至る約70里の砂浜を朝鮮出身の室員一名と共に連続12日間に亘って調査されたこともあった。

 そのうち戦況が不良になるにつれ更に国内資源を再調査することになり当時の帝国鉱発株式会社と共同で先ず福島県石川町周辺の主な露頭即ち同町の和久、塩尻および泉村川辺の3カ処をそれぞれ現地の人たちの協力を得て大規模に開掘したのである。このような面倒な仕事に関連して起こるいろいろな交渉などはいつも長島さんにお任せしたので現地のあらゆる苦情は長島さん一身に集中していた。またそんな多忙な時にも拘わらず、昭和19年 (1944年) の秋には朝鮮の最後のウラン鉱採掘を督励かたがた陸軍の川島虎之輔少将外3名の将校と共に黄海道海月面の菊根鉱山へ出張して戴いたこともあった。このような日本の原爆事情がどうしてアメリカ側に知られたのであろうか? 遂に昭和20年 (1945年) 4月13日の空襲で真先きに理研がやられて潰滅すると共に、私共の荒川工場の最も重要なウラン抽出棟が直撃弾を受けて工員3名が即死した。そこで破壊された3工場全てをまとめて石川町へ疎開したが、勿論長島さんもご家族と離れて同町に来られ、そして終戦の日、あのラジオの玉音を聴き終って長島さんの口をついて出た言葉は今も私の耳底に残る”平和の鐘が鳴りましたよ”と。

小松時代 — このようにして原爆の影はわが国から消え去ったが原子力だけは残ったのである。当時国民は挙げて原爆と原子力との見境もなく嫌悪無視しようとしていた際に、こんな巨大なエネルギーを平和産業に利用したら、どんなことでもできるようになろうと窃かに気付いた人達も沢山おられたことであろう。そのうちの一人が遂に私に呼びかけて来られた。それは昭和25年 (1950年) 春頃、その人は小松製作所社長河合良成氏であった。同氏はその意向として先ず国内のウラン資源の再調査から始めて見たいとの切実な希望を述べられたのである。 私は同氏に一体こんな途方もない問題をどう考えておるのかと質したら、無論将来国家として考えた場合それに必要な資源をどう用意すべきかを先ずハッキリしておきたいのであるとのことであった。それならばということでまたまた神輿を上げることになったのである。

 処で東南アジア方面の希元素鉱物の産状は戦時中に概略調査してあったので、取りあえず社員をタイへ派遣して貰って同国のマレイ半島地域に属する領土内に数箇処の鉱区を出願して目欲しい鉱砂を数10トン取り寄せて貰い、また同時に長島先生を煩わして国内の未調査地域を改めて調査することにしたのである。今度は携帯用カウンターも使用できる時代になっていたので仕事も頗るらくであったが、主としてペグマタイト地帯を流れる河川の調査を試みることにした。 その結果阿武隈川や天竜川は不結果で、ただ信濃川の上流である高瀬川の砂は葛温泉から大町辺までの試料では極めて微量ながらウラノトーライトやフェルグソン石などの微粒を含有しておるので、化学分析の結果その河床砂の平均ウラン (U3O8) 含有率が約0.007% 程度であることを確かめた。また山形県の最上川の上流並に支流および新潟県岩船郡の荒川並に三面側の調査では三面川流域に微量のモナズ石砂鉱の存在を確めた。そして私共が希土トリウム鉱物であるモナズ石までもウラン資源として取扱うのは、それがいつも微量成分として約0.3% 内外のウランを含有するからである。しかしそれやこれやと国内資源の探査をやっておるうちにウラン探しは政府でやることになったので河合氏は個人としての調査を放棄し専ら南方原料による金属タンタルやニオブなどの生産を始められた。その河合さんもこの春物故された。誠に惜しいことである。

 以上はその後政府の手で人形峠や岐阜県可児地帯などが開発されるずっと以前のことである。将来仮に核融合による原子力平和産業が起こるとしても、わが国におけるその発祥時代に寄与された希元素開発の恩人長島乙吉さんの偉大な功績は永久にその史上に輝くものである。 (完)
地学研究、長島乙吉先生追悼特集号 (1970年)
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