すばらしい声楽家として
飯 盛 里 安
 高嶺さんを始めてお見かけしたのは東大物理学教室恒例のニュートン祭のステージに出られたときであった。その時までは私は高嶺さんを知らなかったのである。
 明治41年12月25日も暮れかけて理学部本館二階の化学実験室も薄暗くなって来たので当時同大学化学科二年生の私はいつものように机上のガス灯に火を点じた。とたんに眼前の試薬壜列や撹拌用の空気エンジンやコンデンサーをつけたフラスコなどが白熱マントルの青白い強光を浴びて急に浮き出して来たように見え、これから階下の物理祭典を見に行こうとする待ちかまえた心を一時にかき立てた。
 この本館は32年前の昭和6年に取り壊され今はないがその時の会場はその中央階段講堂の右側の大部屋であった。ここはもともと狭い中庭になっていた処をかなり以前から全体に屋根をふき床を張って学生用仮実験室として使っていたところである。広いといっても恐らく間口五間、奥行九間位であったろう。会場にはさすがは物理学教室、100ワットほどのオスラム電灯が五つも六つも煌々と照り輝き、ガス灯の世界から来た化学連を、まずハッと驚かせた。当時明るい電灯を吊るすということ自体がそれだけで立派な装飾になるのである。
 参会者はかれこれ百二、三十人位であったろうか、祭典はニュートン祭の歌の合唱についで菊池(大麓)文部大臣のやや皮肉交じりの漫談を皮切りにプログラムも可なり進んだ頃、いよいよ当日の呼びものの二重唱が始まるというので学生客のわれわれは後方の席から大いに緊張して舞台を見守った。やがて鼻眼鏡をかけたスマートな田丸卓郎先生が静かにピアノの椅子につかれるとつづいて段上に現れたのはむしろ素朴に見える寺田寅彦先生と並んだお坊っちゃん風の長身瀟洒な学生服のわが高嶺俊夫さんであった。
 そのときの歌はもちろん外国のものであったが、ご自作の詩であったかそれとも何か有名な歌であったかハッキリと覚えていない。ただその曲は頗る高尚なもので校歌以外に唄うことを知らない田舎者の私にはさっぱり判らないが、それだけに何ともいえない幽玄絶妙な和唱を耳にして一時恍惚としてしまったものである。
 かようにして私はこの時始めて高嶺さんをすばらしい声楽家として見知ったのである。高嶺さんは翌年卒業されると間もなく京大のご勤務になられたが、私は学科も違い学級も一年後輩であったのでその後絶えてお目にかかる機会もなかったのである。
 ところが大正8年に私は理研の研究員補としてロンドンに到着すると、その以前からやはり同じ役柄ですでに同地に来ておられた高嶺さんがわざわざ宿舎に訪ねて来られ、故国の近況について聞かれたり外国住いについて、いろいろとお話下さったりしたあげく、まだ西も東もわからない私に”丁度いまカルーソーが来ておるから聴きにいきませんか”と軽く本性を発揮された、とは知らず”カルーソーとはなんですか”と私の答は頗る振るっていた。
 音楽の外にその頃からゴルフにも非常に堪能で在外中も絶えず至る処でやっておられたが、内地に帰ってからも、音痴とわかった私に何か一芸を授けようと、今度はしきりにゴルフをやるように薦められ、ある時わざわざ赤羽のゴルフ場まで引張っていかれコースをずっと引廻されたこともあったが、生来の不器用からついにこれもものにならなかったのである。
 このように何事にも見込のなかった私に対してスペクトルに関してはどんなくだらないことでもいちいち丁寧に教えて下さったし、まだ実験に役立つようないろいろな物品をこちらからお願いしなくても屡賜ったものである。誠に有難いことである。
 しかし高嶺さんの音楽やゴルフなどはほんの息抜きのためであって、本来のご趣味は学問の研究そのものであったらしく、しかもその研究結果について広く世界の碩学と膝をまじえてあい談ずるということに無上の興味を持っておられたと思う。
 だから理研にご在籍中でも年間の大部分は常に海外に在って、気の赴くままに偉大な研究と取組んでおられるようである。つまり生粋の学者というのはまさに高嶺さんのような人をいうのであろう。
 世上単に学者といってもいろいろあって同時に教育者であったり、時に政治家であったり、親分であったり、著述家であったり、事業家であったりする場合が非常に多いのである。もちろん、人それぞれの素質というものがあるから、それがわるいというのではない、学問進展のためにはむしろそれが必要であろう。
 しかし研究一途に身を委ね、研究論文以外にペンを執らず、栄誉も利欲も考えない同氏のような学者はめったにあるものではない、実に高潔そのものの権化のように見えた。高嶺さんの前に出るといつもあらゆる邪念や屈託が一時に霧散してしまうのである。勝手な言分だが、音楽やゴルフが高嶺さん自身の屈託を消す役目をしていたとすれば、私は高嶺さんにお目にかかってよもやまの話をうかがうだけでそれと同様のご利やくに預かっていたといえよう。
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