長男・飯盛武夫の経歴と業績
里安の長男・飯盛武夫は父と同じく東京帝国大学理学部を卒業後、理化学研究所に入り研究者の道を歩み始めました。将来を嘱望されていましたが、わずか31才の若さで早世しました。その経歴と業績はほとんど知られていないので、この項を立項しました。立項にあたって理化学研究所記念史料室に全面的なご協力を頂きました。ここに謝意を表します。
---【経歴】---
1912年(明治45年)3月28日 生
1924年(大正13年)3月 本郷区元町小学校卒業
1924年(大正13年)4月 財団法人本郷中学校入学
1929年(昭和4年)3月 同校を卒業
1930年(昭和5年)4月 新潟高等学校(旧制)理科中級入学
1933年(昭和8年)3月 同校を卒業
1933年(昭和8年)4月 東京帝国大学理学部化学科入学
1936年(昭和11年)3月 同校を卒業
1936年(昭和11年)4月 理化学研究所飯高研研究室 研究生
1937年(昭和12年)4月 飯高研から飯盛研に移籍
1938年(昭和13年)7月 助手
1939年(昭和14年)6月24日 結婚
1940年(昭和15年9月)カリフォルニア大学放射線研究所でサイクロトロンを見学(矢崎為一、渡辺扶生とともに)
1940年(昭和15年10月)第一回応用原子核物理学会に出席(同上)
1942年(昭和17年)3月1日 希元素部兼任
1943年(昭和18年)5月4日 学位授与(理学博士)
1943年(昭和18年)8月16日 没
---【業績】---
武夫は1936年(昭和11年)4月理化学研究所飯高研究室に研究生として入所した。翌年4月までの1年間、熱した鉄が空気に触れた時に生じる酸化鉄の膜の結晶構造を電子線回折法で調べる研究を行い、二編の英文の論文を発表した。論文番号(7),(8)

1937年4月には飯盛研究室に移籍し、飯盛研究室本来の目的である希元素鉱物に関する研究と並行して、サイクロトロンを用いて原子核に関する研究も行った。

昭和17年における飯盛研究室の研究テーマを参照→

理化学研究所には1935年原子核実験室が創設され、仁科芳雄博士主導のもとに1937年4月に日本で最初のサイクロトロン (小サイクロトロン 26インチ)が完成した。1938年から、サイクロトロンを使用する研究が盛んに行われるようなった。(26インチは電磁石の磁極の直径、この数値が大きいほど高エネルギーの粒子ビーム得られ、研究対象が広がる)

「人工放射能の研究室より」(後出)によると、武夫は当初からサイクロトロンに関わり、硫黄に中性子線を照射して放射性の燐を作る実験や銀に中性子線を照射して放射性銀を作り、さらにそれがカドミウムに変化する実験を行っていた。

福井崇時「サイクロトロンを米軍が接収海中投棄した経緯と阪大には2台と記録された根拠」『技術文化論叢』第12号(2009) 「理研サイクロトロン利用実験」にサイクロトロン関連の25編の論文が掲載されているが、この中には上記の実験に相当するものは含まれていない。→

武夫がサイクロトロンに関わった研究として一編の共著論文がある (論文11)。これは、クロムに高速中性子線、低速中性子線、重陽子線を照射することにより、クロムの放射性同位体 Cr51, Cr55 が生成することを立証したものである。


理研では小サイクロトロン完成後、大サイクロトロン (60インチ) 建設の計画が進められた。その頃カリフォルニア大学放射線研究所のローレンス教授のもとに留学していた嵯峨根遼吉から、ローレンスも大サイクロトロンを建設しようとしている、という情報がもたらされた。サイクロトロンの主要部分である電磁石(200トン以上もある巨大なもの)を2台まとめてアメリカの海軍工廠に発注すると、個別に発注するより安くなることがわかり、理研の分も一緒に購入することをローレンスに依頼した。

電磁石は1938年中頃理研に到着した。1939年ころ組み立てが完了したが、なかなか成果が出せなかった。ローレンスのところでは既に完成していることが分かり、情報を得る目的で1940年8月武夫のほか矢崎爲一(やさきためいち)、渡辺扶生(わたなべすけお)の3名が派遣された。

時期は日米開戦間近だったため、サイクロトロンは見せてもらえたが、ローレンス所長には会えなかった。また、設計図のコピーをもらうことになっていたが、その約束も取り消しになった。

派遣の時期を1940年始めとする資料が複数あるが、写真の日付と出張命令書の日付から、これは誤りである。

その後三人はボストンで開催された第一回応用原子核物理学会に出席後帰国した。この学会は本来里安が出席すべきものだったが、多忙のため武夫が代理で出席することになった。また、この学会は戦争のためそれ以後は立消えになった。 三人に出された出張命令書の名目は学会出席であって、どういうわけかサイクロトロンの視察は書かれていない。【出張命令書の文面:応用原子核物理学会議ニ参列ノ爲北米合衆国ヘ出張ヲ命ス 昭和拾五年八月一日】


10月初め武夫はボストンに向かう途中ワシントン D.C.に立ち寄り、スミソニアン博物館の鉱物学者 W.F.Foshag を訪ねて本邦産希元素鉱物の標本を寄贈し返礼としてカナダ産希元素鉱物の標本を受け取っている。

スミソニアン博物館に、里安から Foshag に宛てた「息子の武夫が行くからよろしく」とする手紙が保存されていたことが判明した (詳細は”スミソニアン博物館に埋もれていた意外な資料”の項を参照)。

理研では3人が持ち帰った情報により、大サイクロトロンの大改造を行った。1943年11月頃から調整にはいり、1944年2月15日に完了した。この日は仁科をはじめ研究室員全員が集まりビールで乾杯したという。しかし武夫は前年に死去していたのでこの場に臨む事は叶わなかった。

周知のように終戦時に理研の大小二台のサイクロトロンはGHQの手によって東京湾に投棄された。この行為に対しアメリカの物理学者たちは愚行として強く非難した。
里安の遺品の中に「戦災を免れたもの」と表書きした封筒があり、その中から武夫がアメリカから里安に宛てた手紙の一部が見出された。数枚からなると推定される最後の部分に当たる。文面から、里安に頼まれて鉱物の調達をしていたと推定される。英文の部分には数種類の鉱物の価格が記してある。



【手書きの日本語部分をテキスト化したもの】
これを元にして調べてもらった所、サンヂェゴのものが或は、買へるかも知れない模様ですが、正確なことは、一両日を要するので、それを待ってゐると船便が一回遅れてしまふかも知れませんので、ともかくこれだけ報告致します。この本は一部もって帰る積りですが二三書き抜いて見ると・・・・
當地は物價の安い関係もあり、目下一日、三弗位でやって居りますから少しは、色々なものも買へるかも知れません。
加州大学構内 インターナショナルハウス
九月四日 武夫

(注)インターナショナルハウスはカリフォルニア大学バークレー校に併設されている伝統ある学生寮

---【朝鮮への調査行】---
東大在学中の1934年(昭和9年)、飯盛研究室員の吉村惇、畑晋、父・飯盛里安とともに希元素鉱物調査のため朝鮮に渡った。南部は全羅北道の金提、全州および慶尚北道の慶州まで、北西は平安北道の富寧まで約1カ月かけて全行程約4700kmを調査した。その結果各地に散在する砂金採集地にある副産物の重砂中に希元素鉱物が存在し、資源として利用できることが分かった。

1937年(昭和12年)秋、飯盛研究室員の谷川浩、同研究室嘱託・長島乙吉とともに朝鮮の咸鏡南道永興郡仁興面を訪れ、砂金残砂から黒モナズ石を採取した。黒色のモナズ石はそれまで知られていなかった。

1938年(昭和13年)5月、長島乙吉とともに朝鮮の忠清北道丹陽郡丹陽面九尾理および全羅北道茂朱郡赤裳面斜山里を訪れ、それぞれの場所からコルンブ石を採取した。

同年秋、再び長島乙吉とともに忠清南道洪城郡を訪れ、砂金殘砂から3種のニオブタンタル鉱物を採取した。分析の結果、それらはタンタルユークセン石、イットロタンタル石、フェルグソン石であることが判った。前二者は日本で初産であった。
     
---【著作】---
(1).「人工放射能の研究室より」 『新指導者』 精神科学研究所出版部 pp.61 - 63, 1941年
(2).「アメリカの科學の性格」 『知性』 河出書房 pp.63 - 65, 1942年
---【論文】---
(1)."Tengerite found in Iisaka, and Its Chemical Composition", Sc.Pap.I.P.C.R., Vol.34, pp.832 - 841, 1938
(2)."A Beryllium -bearing Variety of Allanite", Sc,Pap.I.P.C.R., Vol.36, pp.53-55, 1939
(3)."The Microgranulary Uraninite from Iisaka, and Its Geologic age", Sc.Pap.I.P.C.R., Vol.39, pp.208 - 210, 1941
(4).木村健二郎と共著 「福岡縣安眞木村産閃ウラン鑛(ピッチブレンデ)及びモナズ石, 山口縣柳井町産燐灰ウラン石等の化學分析」 『地質學雜誌』 43(513), pp.450-452, 1936
(5).木村健二郎と共著 「東洋産含稀元素鑛石の化學的研究(其二十六):福岡縣安眞木村産閃ウラン鑛,モナズ石及びツコ石に就て」 『日本化學會誌』 58(11), pp.1135-1143, 1937
(6).木村健二郎と共著 「東洋産含稀元素鑛石の化學的研究(其二十七):山口縣柳井町産燐灰ウラン石に就て」 『日本化學會誌』 58(11), pp.1144-1145, 1937
(7)."A Study of Oxide Films Formed on Heated Iron", Sc.Pap.I.P.C.R. Vol.34, pp.60 - 67, 1937
(8)."A Study of Passivity of Iron Using Electron Diffraction", Bulletin of the Chemical Society of Japan, Vol.13, No.1, pp.152 - 158, 1938
(9).畑晋と共著 「宮城縣及び福島縣に於ける新産銅ウラン鑛,灰ウラン鑛及び閃ウラン鑛」 理研彙報, Vol.17, No.5, pp.355 - 358, 1938
(10).畑晋と共著 「朝鮮丹陽面及び赤裳面産コルンブ石」 理研彙報, Vol.17, No.9, pp.642 - 643, 1938
(11).Joint work "Artificial Radio-Activity of Chromium", Sc.Pap.I.P.C.R., Vol.37, pp.396 - 398, 1940
(12).「東部北鮮産の黒モナズ石に就て」 理研彙報, Vol.20, No.12, pp.1052 - 1054, 1941
(13).畑晋と共著 「朝鮮に於ける新産ニオブタンタル鑛物」 理研彙報, Vol.21, No.11, pp.1160 - 1162, 1942
(14)."Chemical investigations of Japanese minerals containing rare elements"
(本邦産稀元素鉱物の化学的研究) (博士論文) 1943
上記論文中(1),(2),(3)を主論文とし、(5)から(13)を参考として一つにまとめたもの


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