地学ペンクラブ・放射能一夕話
 飯盛は終戦直前の昭和20年7月から4年間福島県石川町に住んでいました。石川町への疎開のいきさつはWikipedia に詳細が書いてあるのでそちらをご覧ください。この文は石川町在住中の昭和22年に雑誌「鉱物と地質」に投稿されたものです。

 その一部は石川町立歴史民俗資料館編「ペグマタイトの記憶」、中津川市鉱物博物館編「飯盛里安博士97年の生涯」に掲載されていますが、全文を読むには国会図書館か図書館送信参加館に足を運んで利用者登録をして閲覧するか、遠隔複写サービスを依頼する必要があるので、ここに取り上げました。

 周知のように、敗戦とともに日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統治下に入りました。GHQは日本から軍事色を一掃するために強力な施策を行い、それに伴い放射化学の研究も禁止されてしまいました。飯盛は、戦時中は心ならずも軍に協力させられて二号研究に加わり、その挙句、命とも云える放射化学を取り上げられることになってしまいました。また、広島、長崎の惨状を知り、自分が研究してきた放射能がこのような使われ方をしたことに大変ショックを受けたようです。その複雑な想いは文章から読み取ることができます。飯盛はその後生涯に渡って、二号研究に関わったたことを家族に一切話しませんでした。

 原文は粗悪な紙に印刷されていて不鮮明で読みにくいので、テキストに打ち直しました。また、原文には段落の区切りが無いので適当に段落付けをしました。オリジナリティを保つため、旧字体、旧かな使いは敢えてそのままとしました。
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